正当な批判
- どの政策を行ったか
- どの命令を出したか
- 誰を迫害したか
- どの制度を構築したか
- どの思想を広めたか
- どのような責任を負うべきか
CLEAN SOCIETY / SELECTIVE ETHICS / BODY POLITICS
ヒトラーの身体をめぐる嘲笑と、選択的に停止する差別禁止
現代社会では、病気、障害、外見、性器、年齢、体重を理由に人を侮辱することは、原則として差別とされる。
ところが、その相手が社会的に嫌われている人物であるとき、同じ表現が正当な批判として許されることがある。
そこで試されているのは、悪人の尊厳ではない。自分が嫌う相手にも、自分が掲げる倫理を適用できるかという社会の一貫性である。
ヒトラーの思想、政策、侵略、虐殺は徹底的に批判されるべきである。この観測は同情を主題にしない。批判の対象を政治的行為に置き、身体的特徴を侮辱の材料にしない。ナチズムやホロコーストを矮小化しない。
社会には、表向き次の規範がある。
しかし、嫌われた人物に対しては、この規範が停止する。
政治家、犯罪者、炎上した著名人、独裁者、社会的に非難された人物に対しては、普段なら差別とされる言葉が「当然の報い」「風刺」「批判」として流通する。
社会的に正しい側にいるという確信は、ときに差別的表現を許可する。相手が悪人であるほど、次の感覚が強くなる。
このとき差別は禁止されているのではない。差別を行ってよい対象が選別されている。
Clean Societyは、すべての人を平等に清潔に扱う社会ではない。実際には、人を次のように分ける。
一度「汚れた側」「悪い側」「許されない側」に分類されると、その人物には通常の倫理が適用されなくなる。
ヒトラーは、倫理の一貫性を考えるうえで極端なテストケースになる。
ヒトラーの思想、政策、侵略、虐殺は徹底的に批判されるべきである。しかし、その批判に身体的特徴を使う必要はない。
身体を使ってヒトラーを侮辱するとき、批判の矛先は政治的行為から、身体的な正常性へ移る。
結果として、「身体的に正常な人間は善であり、異常な身体を持つ人間は悪である」という、ヒトラー自身が推進した優生思想に近い論理を、反対側から繰り返す危険がある。
この問題は、現代社会が過剰に「傷つけないこと」を重視しているというだけでは説明できない。実際には、現代社会は人を傷つけることをやめていない。傷つけてもよい対象を、より細かく分類している。
つまりClean Societyは、非暴力の社会ではなく、倫理の適用範囲を管理する社会でもある。
Critique / Insult Boundary
批判の対象は行為と制度である。身体的特徴は、悪の証拠でも、批判の道具でもない。
Clean Societyとしての問い
倫理は、相手が善人であるときだけ適用されるものなのか。
嫌いな人物を侮辱するためなら、差別的な表現を使ってよいのか。
社会的に排除された人物には、人間としての共通規範を適用しなくてよいのか。
悪を批判するとき、自分自身が悪の論理を反復していないか。
Closing
ヒトラーを批判してはいけないのではない。むしろ、その思想、政策、権力行使、虐殺を正確に批判しなければならない。
しかし批判のために、病気、障害、性器、遺伝子を侮辱として利用する必要はない。
倫理の価値は、守りたい人に適用するときではなく、嫌いな人に対しても維持できるかによって試される。
Clean Societyの問題は、誰も傷つけないことではない。誰なら傷つけてよいかを、社会が静かに選別していることである。
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